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ミハエル・クルム(Michael Krumm、1970年3月19日 - )は、ドイツ人のレーシングドライバー。妻はプロテニスプレイヤーのクルム伊達公子である。 == プロフィール == *身長:183cm *体重:70kg *血液型:RH+A型 ---- 1988年にドイツ国内のフォーミュラ・フォードでデビューし、2年目にはシリーズチャンピオンを獲得した。翌年にはドイツ・フォーミュラオペル・ロータスのシリーズチャンピオンとなった。1992年にはドイツF3、1993年にはドイツF3とイタリアF3で活躍した。 1994年に来日し、同年の全日本F3選手権でシリーズチャンピオンを獲得した。以後、全日本F3000選手権・フォーミュラ・ニッポンや全日本GT選手権・SUPER GTなど、日本のトップカテゴリーで活躍した。当初はトヨタワークスでの活動が多かったが、1998年のドイツツーリングカー選手権〔FIA・グループST車両による選手権で、現在のドイツツーリングカー選手権(DTM)とは異なる〕に日産・プリメーラで参戦したのを機に日産のワークスドライバーとなった。 2001年にはアメリカに渡りCARTにデイル・コインレーシングから参戦したが、チームがシーズン途中でCARTから撤退してしまったため日本に復帰した。2002年にはル・マン24時間レースにアウディ・R8で参戦し、総合3位を獲得した。 全日本GT選手権(後のSUPER GT)には1995年にトヨタ・スープラでデビューし、シリーズランキングは5位、優勝1回と好成績を収めた。1996年はポルシェでスポット参戦し、1997年には後にF1ドライバーとなるペドロ・デ・ラ・ロサとのコンビでシリーズチャンピオンを獲得した。1999年より日産・スカイラインGT-Rで復帰し、以後NISMOのドライバーとして活躍した。2003年には本山哲とともに2度目のシリーズチャンピオンを獲得した。 2009年から2011年にかけてNISMOのドライバーとしてFIA GT選手権に日産・GT-Rで参戦。2009年8月22日、23日に開催されたSUPER GT第6戦鈴鹿にブノワ・トレルイエのピンチヒッターとして参戦。スポット参戦ではあるものの、6年ぶりに本山とコンビを組んだ。FIA GT選手権を引き継いだFIA GT1世界選手権にも引き続き参戦し、2011年にはルーカス・ルーアと組んでJRモータースポーツからエントリー、参戦3年目にしてシリーズチャンピオンを獲得した〔クルム/ルーア組ニッサンGT-R、FIA GT1王座獲得 AUTO SPORTSweb 2011年11月6日付〕。 妻であるクルム・伊達公子がテニス大会復帰の際に、日本テレビなど一部報道機関は「夫であるF1ドライバーのミハエル・クルムさん」と紹介していたが、F1への参戦経験はない。 2012年は、ブノワ・トレルイエがSUPER GTと多くの日程が重なるFIA 世界耐久選手権へ参戦するためにNISMOを離脱したことから、その後釜として2012年より自身3年ぶりにSUPER GTのNISMOに復帰し、本山哲と8年ぶりにコンビを組む。また同年よりル・マン24時間に次世代車枠の“ガレージ#56”でエントリーするデルタウィングのドライバーにも起用される。 2013年9月30日に、日産GT-RのNISMOモデルでニュルブルクリンク(北コース)を7分08秒679で周回し〔Michael Krumm Attacks Nürburgring in a Nissan GT-R NISMO(解説付き走行動画) nissan news room 2013年11月19日〕、量産市販車としての世界最速の記録を更新し、同年11月19日に行われたGT-Rの2014年モデルとNISMOモデルの発表会に出席し、日産CEOのカルロス・ゴーンと共にこの成果を発表した〔日産、"量販車ニュル最速"のスーパー・スポーツカー「GT-R NISMO」を正式発表! auto blog 2013年11月20日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミハエル・クルム」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Michael Krumm 」があります。 スポンサード リンク
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